2022年2月にロシア軍がウクライナに侵攻してから約7ヶ月。それ以降、日本でも現代社会における平和や戦争の問題について報道が増える中、日本政府の中で国際協力や開発支援を所管する国際協力機構(JICA)が「ピースビルディングボンド」の名称で国内財投機関債を発行した。ピースビルディングを日本語にすると「平和構築」だ。もちろん、ピースビルディングボンドという名称の発行は、日本で初なだけでなく、国際的にも初となった。
ピースビルディングボンドは、国際的な枠組みとしてはソーシャルボンドのスキームを活用。セカンドオピニオンは日本総合研究所。発行額は、第66回、第67回国際協力機構債券を合わせて240億円。第66回債券は年限10年で利率は0.374%。第67回債券は年限20年で利率は0.910%。株価や金利が大きく変動する難しい市況下での発行となった。
今回のピースビルディングボンドに関しては、非常に多岐に渡る投資家が投資表明を行っている。例を挙げると、保険会社や信用保証協会に加え、東京都台東区、東京都葛飾区、埼玉県所沢市、宮城県東松島市、富山県氷見市、愛知県小牧市、奈良県三郷町、岡山県真庭市、福岡県吉富町、福岡県退職教職員協会、学校法人上智学院、学校法人関東学院、学校法人大阪電気通信大学、社会福祉法人すぎのこ会など。地方自治体の購入も目立つ。
JICAはなぜこのタイミングで、ソーシャルボンドとしてのスキームに加え、「ピースビルディングボンド」というブランド名を付けたのか。その狙いを、JICAの平田仁財務部部長に伺った。
夫馬
なぜ「ピースビルディングボンド」という変わった名称をあえてつけたのですか?
平田氏
JICAは2016年にソーシャルボンドを初めて発行したのですが、実は2019年から年に一度、あえて特定のテーマや地域に資金使途を限定するテーマ債を発行しています。2019年はTICAD債、2020年はコロナ対策債、昨年はジェンダーボンド、そして今回はピースビルディングボンドです。
テーマ債の狙いは、テーマに対する関心を高め、一緒に動いていく仲間を作っていくことにあります。実際に昨年にジェンダーボンドを発行した際には、すごく大きな反響がありました。
例えば、民間金融機関、自治体、開発援助機関といった他の発行体からもジェンダーボンドを発行したいので教えてもらえないかという問い合わせも多数いただきました。
加えて、組織外だけでなく、JICA内部への大きな波及効果もありました。JICAの事業部からもジェンダーに関する事業案件をさらに積極的に創出していこう動きにつながりました。JICA自身の職員のダイバーシティ&インクルージョンを振り返るきっかけにもなりました。
夫馬
すごい大きな反響ですね。債券発行というと、単なる資金調達に思えますが、意思を持って効果を狙うことで、大きな波及効果が生まれることを実感させられます。では、なぜ今年は「ピースビルディング」をテーマに選んだのでしょうか。
平田氏
毎年のテーマは、職員みんなで議論をしながら決めています。昨年は新型コロナ・パンデミックのタイミングで、女性が男性よりも大きな打撃を受けているという事態を受け、ジェンダーをテーマにしました。
今回ピースビルディングに決めたのは、もちろんウクライナ情勢もありますが、JICAは以前からピースビルディング分野の活動を数多く手掛けています。もともとピースビルディングとは、1992年1月に当時のガーリ国連事務総長が「平和への課題(Agenda for Peace)」というレポートを出し、その中で登場した概念です。平和を実現するには、「予防外交(Preventive Diplomacy)」「平和創造(Peacemaking)」「平和維持(Peacekeeping)」「紛争後の平和構築(Post-conflict Peacebuilding)」の4つ要素が必要というものなのですが、当時はカンボジア和平合意のタイミングでした。日本政府もカンボジアPKOを始め、カンボジアでの地雷除去などピースビルディングの活動を長くしています。
実は私自身も2010年から2013年にカンボジアに駐在していまして、ピースビルディングの重要性を感じていました。また1995年から1998年の期間にはフランスにいたのですが、1995年にボスニア・ヘルツェゴビナでデイトン合意が結ばれ、1996年からは首都サラエボに何度も出張にいきました。初めて行ったときはまだ街中が戦跡で穴だらけでしたが、行くたびに街が綺麗になっていく。紛争後のピースビルディングとして、セルビア系のスルプスカ地域から、ムスリム系のボスニア地域を結ぶ送電線を引けるかという難しい交渉にも携わっていました。これが私自身が最初にピースビルディングに直接触れた体験です。
こうした経緯もあって、今年は「平和」をテーマにできないかと考えました。テーマ債を発行するには、関連している資金使途がしっかりとあることが重要なので、調べたところ、イラクやフィリピンをはじめとしてピースビルディングの案件がいくつもありました。当初は「ピースボンド」という名称案でしたが、最終的に「ピースビルディングボンド」としました。JICAがピースビルディングにも携わっていることを知ってもらいたかったからです。
夫馬
日本でも最近、ウクライナ戦争をきっかけに、戦争や平和に関する報道が増えてきているように感じています。平田さんは、この状況をどうのようにみていますか?
平田氏
今回ウクライナのことで、日本にとって戦争や平和という話題がものすごく身近になったと思います。ですが、実は世界の中では戦争や平和に関する話題はウクライナが初めてではありません。昨年にはアフガニスタンでカブール陥落という情勢があり、その前にもミャンマーで軍政が台頭する動きがあり、ロヒンギャ難民100万人近くはミャンマー軍に追い立てられバングラデシュに流入しました。このようにアジアでも紛争や難民の問題が繰り返し起きているのですが、日本ではウクライナ戦争というヨーロッパでのできごとがあって急に戦争や平和の話題が身近になりました。日本の人にとって、アジアは遠く、ヨーロッパは近いという感覚があるのかもしれません。
ただ、日本では、1970年代にはベトナムの「ボート・ピープル」と呼ばれた難民をたくさん受け入れた歴史があり、ものすごく経験を積んできています。しかし、その後、関心が薄れていき、今回のウクライナ難民で初めて日本が難民を受け入れたかのような感覚になっているようにも思います。日本では何か盛り上がるとブームのようになり、その後急にパタっと消える風潮があるのかもしれません。そうならないようにするためにも、ピースビルディングという概念を知っていただき、日本も生き残りをかけ、どのように防衛し、どのように他国との関係を創っていくかを伝えていきたいと思います。
夫馬
平和は大事だけれど、人々が日常的に意識し続ける必要はないという方もいます。海外での平和や紛争の話であれば、なおさら難しいかもしれません。ですが、実際にピースビルディングに携わってきた平田さんにとって、日本の方々もピースビルディングを意識し続ける重要性をどうとらえていますか?
平田氏
企業にとって、世界の紛争は企業活動と密接に関わっています。例えば、ミャンマーでクーデターが起きたとき、投資した現地の事業をどうするかという問題に直面した企業は少なくありません。ロシアにおいても、石油・ガス開発プロジェクトのサハリン2をどうするのかという問題があります。大きな意味では、社会が平和で安定していることが事業活動の前提になっていますが、その前提が揺らいできています。
夫馬
再びピースビルディングと債券の関係に話を戻したいとおもいます。債券は、資金調達した資金で事業を行い、利益を出して金利をつけて債券を返済していきます。ピースビルディングで利益を出すという考え方にピンとこない方もいるかもしれません。
平田氏
これは、そもそも国際協力や開発支援をしているJICAがなぜ債券を発行しているのかという話とも関連してきます。JICAを含めた独立行政法人は、もともとは国からの管理・監視を受けてガバナンスを図るという構造でしたが、小泉政権での財政投融資改革で、独立行政法人も債券を発行し、投資家という第三者の目線も踏まえガバナンスを強化しようとしたのが始まりです。
JICAは1兆4000億円の予算のうち、債券発行での資金は800億円と少なく、国からの予算や借入の方が圧倒的に多いです。但しこの800億円の債券を発行することで、市場関係者からの意見をきく重要な場を得ています。特に最近では、政府の動きよりも、ESGが強く意識される民間企業の方が動きが早いとも感じており、市場関係者からのインプットが重要になっています。
JICAが発行する債券は、国の予算とこれまでの貸出からの金利収入が返済原資です。JICAの財務諸表は自己資金が厚く、信用格付は日本国債と同じです。
今回のピースビルディングボンドでも、ピースビルディングの案件だけでなく、JICAの全体の収益が返済原資です。ピースビルディングは、あくまで関心を持ってもらう人を増やすためのテーマであって、ピースビルディング案件だけを返済原資としているわけではありません。
※筆者注:今回のピースビルディングボンドは、スキームとしてはソーシャルボンドのフレームワークを活用しています。JICAはソーシャルボンドのフレームワークを策定しており、セカンドオピニオンを通じ、JICAの有償資金協力事業全体が資金使途の適格性を持つことが確認されています。
夫馬
JICA以外でも、世界銀行やアジア開発銀行(ADB)などの開発支援機関が債券発行を積極的に行い、市場から資金を調達しています。JICAにとって民間の資金市場はどのような存在ですか?
平田氏
開発途上国に流れる資金フロー全体のうち、政府のODA(政府開発援助)よりも、FDI(海外直接投資)の方が圧倒的に主流になっており、いかに民間資金を開発の分野に動員するかが、世界銀行もADBもJICAも共通の課題になっています。ですので、JICAに債券投資していただくだけでなく、場合によっては協調融資という形で民間金融機関からの投融資を募り、民間資金をもっと活用していきたいと考えています。
そして、多くの開発途上国への資金フローでFDIよりも大きいのが海外送金です。FDIも海外送金も、国が平和で安定していないと資金が集まりません。その点でも平和というものが重要なのです。
夫馬
今回のピースビルディングボンドでは、自治体からの投資表明が多いことが印象的です。
平田氏
IRチームは、いろいろな自治体に足を運んでいるのですが、自治体の中でもESG投資への関心が高まっています。自治体が市民に活動を伝える手段の一つとして、JICA債の購入が位置づけられてきているのかもしれません。特に首長の意識が高いと、すぐに購入の意思決定に結びつくケースも多く、これがJICA債で自治体の投資表明が多い背景なんだろうと思います。
夫馬
JICAがテーマ債を発行し、そのテーマ債を購入することで今度は自治体がそのテーマの重要性を発信していく。まさに債券が拡声器のようになって、JICAが伝えたいメッセージが世の中に広がっているんですね。
平田氏
そうなんです。自治体からさらにその地域の企業にもメッセージが広がっていくことを期待しています。そうして日本の各地の企業が、JICAとの連携を始めてくれたらいいですね。実際に自治体を訪問する際には、一緒に地域金融機関にも足を運んでいます。実際に、金融機関から企業を紹介していただくことも増えてきました。とてもいい循環です。
夫馬
JICAがソーシャルボンドを初めて2016年に発行してから6年が経ちました。ソーシャルボンドを発行してきてよかったと思うことはありますか?
平田氏
JICAは債券の発行額の小さい発行体ですので、2016年当時から独自性を出すことに注力してきました。ちょうど国際資本市場協会(ICMA)がソーシャルボンド原則(SBP)を策定したタイミングでしたので、このスキームを活用しようとしたのがもともとの経緯です。ソーシャルボンドは、インパクトの報告も必要となりますが、もともとJICAはプロジェクトの事後評価をプロジェクト終了の3年後に行うことが制度化されていますので、インパクト評価がしやすいという自負もありました。
さらにテーマ債では、掲げたテーマごとにインパクトを開示することも必要となります。手間にはなりますが、手間をかけででも実施する価値はあると考えています。JICAは上場企業でありませんので、株価という評価フィードバックがありません。ですので、インパクトをきちんと説明し、債券をしっかり発行できるかということが自分たちにとっても存在価値を振り返る重要な機会となっています。
企業の間で、ソーシャルボンドのインパクト評価に苦労されていると聞きます。JICAは、金融庁のソーシャルボンド・ガイドラインの策定にも参加しました。JICAが持つインパクト評価の知見をもっと企業に共有できればとも考えています。
夫馬
日本では、国際協力や医療、教育などのソーシャルの分野は、企業ではなく行政の活動領域だと思っている人がまだまだ多い。ソーシャル分野に企業が向き合っていく意義をどうお考えでしょうか?
平田氏
私自身、2年前までバングラディシュにいましたが、バングラディシュではソーシャル分野のイノベーションは、スタートアップが担い手としてどんどん動いています。なぜかというと、行政サービスの質がまだ高くなく、サービスへのアクセスも行き届いていないので、企業やNGOが果たす役割がすごく大きいからです。
開発途上国では、企業やNGOが新しいアイデアを動かして社会サービスの改善が行われ、そのスピードとイノベーションのエネルギーがすごいです。日本にいると、多くの社会サービスを行政が担っており、企業の役割は小さいという錯覚に陥りがちかもしれませんが、開発途上国で起きているイノベーションがどんどん日本に入ってくると、今の行政サービスのレベルでは果たせないものを企業が担えるようになります。そこに投資が広がれば、日本社会のウェルビーイングも上がってくると思います。
夫馬
今後の抱負をお聞かせください。
平田氏
若い世代では、ESGの関心が高いとも聞いていますので、今後、リテール債をもっと出せたらとも思います。また個人的な思いとしては、プロジェクトごとに起債する「マイクロ起債」ができたら面白いと思っています。JICAという単位ではなく、各プロジェクト単位で支援したい案件の債券が購入できる仕組みです。デジタル債というスキームが広がれば、技術的には可能ではないかと思います。債券購入で支援したプロジェクトを、デジタル上の仕組みを使って日々見守りながらサポートする。そういう投資家のニーズもあるでしょうから、そういう投資家を増やしていければとも思っています。