石油。化石燃料の中でも最もその動向が話題になる物質です。石油は自動車燃料やジェット燃料、また火力発電所の燃料として使われるだけでなく、プラスチックやナイロン、芳香剤など化学素材の原料ともなっています。シェールオイル、OPEC、スーパーメジャー、イラン、サウジアラビア等、毎日のように登場する石油産業のキーワード。世界経済の根幹として機能している石油の価格はここ数年、大きく変動しており、経済関係者や投資家はその変動を固唾を呑んで見守っています。いま石油価格の変動に影響を与えているものは何か。今回は石油産業の供給側の状況を見ていきます。
石油産業の始まり
日本人にとって石油と言えば中東というイメージが強いですが、石油産業はアメリカで始まりました。1850年代、日本ではペリー来航で江戸幕府が右往左往していた時代、アメリカではすでに鯨油を用いたランプ灯が使われ始めていました。当時江戸近郊に出没するアメリカ船も鯨油獲得のための捕鯨目的だったと言われています。時は1858年、日本で日米修好通商条約が締結されたこの年、アメリカ東部ペンシルバニア州で、弁護士エベレス、事業家ビゼル、その他富裕層投資家によってセネカ・オイル社という企業が設立されます。この会社が狙ったものは当時、アメリカで存在が噂されはじめていた地下に眠る石油の採掘でした。この企業に一人の男が偶然、投出資者の一員、そして採掘責任者として採用されます。それがエドウィン・ドレークです。彼は、後に「世界で初めて石油を発掘した男」と呼ばれることになる人物です。
ドレークはペンシルバニア州タイタスビルで採掘を開始します。当時タイタスビルは地表上に石油が滲みでる場所があり、そこから採取された石油がランプ油として使用できると判断されていたからです。世界で初めてとなる地下石油の採掘には困難に直面します。岩塩採掘機などを改造して作ったドリルは、ある程度は掘削を進めましたが、固い岩盤にぶつかってからは掘削速度がダウン、時が過ぎ資金は枯渇、ついにセネカ・オイルの出資者たちは音を上げて事業から手を引いてしまいます。ドレークは知人などから資金をかき集め自力で採掘を続けました。彼の執念は実を結び、1859年、ついに石油が掘削パイプから湧出、地下石油の採掘に成功したのです。
このドレークの成功にニューヨーク・ウォール街は即飛びつきます。当時の欧米経済の中心といえばロンドン。ロンドンには数多の証券会社が集積しヨーロッパ中の資金が集まってきていました。そしてそのロンドンにとって、発展著しい新大陸アメリカは格好の投資先。資金がロンドンからウォール街へと流れ込んでいたのです。ドレークの成功から数年、アメリカでは空前の石油投資ブームが沸き起こります。タイタスビル周辺だけでなく全米各地で新規参入者が次から次へと地下を掘り進め、産油量はいっきに増加、オイルラッシュ時代に突入します。結果起こったことはオイルバブルの崩壊でした。石油需要がランプ灯に限られている中で産油量ばかりが増加した結果、原油価格が崩落、当初1バレル当たり20米ドルついていたものが、1861年には10セントにまで下がったと言われています。「世界で初めて石油を発掘した男」ドレークの命運はここで付きてしまいます。世界初の採掘製法に関して特許保護策を取らなかったドレークは新規参入者の波に飲まれる中、採掘にお金を注ぎ込み資産を喪失、議会からの温情を受け特別年金手当を受けて暮らすという寂しい晩年でした。
石油価格の急落に直面した事業家たちは、産油量の自主規制による価格保護という手を打ち、価格は数ドル程度まで回復。それでも、石油の海外輸出網が整備されるなど、全米の産油量は増加していきました。やがて生き残りをかけた事業者の統合の時代が到来します。この熾烈な生き残り勝負を勝ち抜いたのが、ジョン・ロックフェラー率いるスタンダード・オイル社でした。ロックフェラーはトラストいう金融手法を駆使し、1882年までにペンシルバニア州の油田の多くを手中に収め、さらにテキサス、カリフォルニアなど全米各地で石油採掘事業を手がけていったのです。
スタンダード・オイルからセブンシスターズの時代へ
(出所)ニューラル作成
20世紀に入り、1908年にはフォードのT型生産方式が確立するなど、石油はガソリンとして、またストーブ燃料としても活用されはじめます。この石油需要の急増を追い風に、スタンダード・オイルは石油生産シェアの90%を誇る巨大企業に成長していきました。このスタンダード・オイル一人勝ちの状況を危惧し、ついにアメリカ連邦議会が動きます。1911年、「反トラスト法」が制定、スタンダード・オイルは地域ごとの34社への分割解体を余儀なくされました。
そしてその後、石油産業はセブンシスターズの時代へと変遷していきます。分割解体されたスタンダード・オイル各社が目をつけたのは海外でした。1910年代は第一次世界大戦が勃発し、軍需としての石油需要が増えるだけでなく、今に続く大きなできごとが起こります。それは、第一次世界大戦敗戦国となったオスマン帝国の解体です。新生トルコ、またオスマン帝国の支配下にあったイラクなどにイギリスの息が及ぶようになり、中東全域での石油採掘ブームを巻き起こしました。そして地域の各政府と交渉を重ね石油採掘権を握っていったのが、スタンダード・オイルの生き残り各社と、植民地での石油採掘に成功していたイギリス、オランダの企業です。このようにして、世界の石油採掘は、スタンダード・オイルを前身とするエクソン、モービル、ソーカル、20世紀初頭テキサス石油ブームで力をつけたガルフ、テキサコ、植民地での石油採掘を始めていたロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアムの7社が支配する「セブンシスターズ」時代が開幕するのです。
勢いに乗るセブンシスターズは産油についてのデファクトスタンダードを築いていきます。その集大成となったのが、1928年にスタンダード・オイルニュージャージー(後のエクソン)、ロイヤル・ダッチ・シェル、アングロ・イラニアン石油(後のブリティッシュ・ペトロリアム)の3社で締結された赤線協定とアクナキャリ協定だと言われています。これは旧オスマン帝国領土内の石油の単独開発を禁じ、アメリカ及びソ連領土内の石油販売シェアを固定したものだと言われています。結果、セブンシスターズ時代には世界の石油価格決定権はセブンシスターズのカルテルによって一元的に管理され、その方式は「ガルフ・プラス方式」「中東プラス方式」と呼ばれていました。
(出所)エネルギー庁
セブンシスターズの時代はその後1970年代まで続きます。上のグラフからは、第二次世界大戦後の1949年当時でも、セブンシスターズは世界の産油量の65%、埋蔵量の43%の利権を手にし、石油産業を完全に支配していたことがわかります。
OPEC(石油輸出国機構)の創設
この状況に一矢を報いたのが、中東諸国を中心に結成されたOPECの創設です。産油国は、国家財政の大半をセブンシスターズからの収益分配金で担っているのに、その石油の価格決定権をセブンシスターズに握られてしまっている、この状況を打破しようと考えたわけです。1960年設立当初のメンバーは、イラン、イラク、サウジアラビア、クウェート、ベネズエラ。その後10年の間に、カタール、インドネシア、リビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、ナイジェリアなどが加盟、産油国がセブンシスターズから石油利権を取り返す攻勢を繰り出します。
(出所)エネルギー庁
OPEC諸国が狙ったのは石油利権の奪還と石油価格決定権の確保です。石油利権の奪還では、OPEC創設より前の1951年に、イラン政府がアングロ・イラニアン石油(後のブリティッシュ・ペトロリアム)が持つイラン石油利権を国有化、1960年にインドネシア、1967年にアルジェリア、1970年にはリビア、1972年イラク、1973年サウジアラビア、1976年カタールとクウェート、UAEアブダビ、ベネズエラ、1979年にナイジェリアで、セブンシスターズが持つ石油資源会社の国有化が実施されました。こうして、OPEC諸国で産油地を失い、産油国政府から石油採掘工事を受託するサービス業者へと転換したセブンシスターズは、その権勢の旗を降ろしていきます。小説「海賊とよばれた男」のモデルとなった出光興産の出光佐三社長が、石油利権を1951年に国有化したイランから独断で石油の輸入を断行した日章丸事件を引き起こすのが1953年。当時はこのような時代背景があったのです。
(出所)Business Insider
価格決定権の確保では、当時セブンシスターズが決めていた公示価格を1971年のテヘラン協定、トリポリ協定で段階的に引き上げさせ、そして1973年の第四次中東戦争を機にOPECがセブンシスターズへの相談なく立て続けに、70%の価格引き上げ(10月16日)、イスラエル支援国への石油禁輸(10月17日)、130%の価格引き上げ(12月)を実施するという第一次オイルショックを経て、セブンシスターズは価格決定権を完全に喪失しました。このことは、セブンシスターズによる石油価格安定の時代の終わりも意味していました。
OPECの一時的な衰退
1973年の第一次オイルショック、そして1978年のイラン革命による第二次オイルショック。1970年代はOPECが石油の実権を確保した時代でした。OPECは石油価格を高く維持することに成功し、同時に石油利権そのものを国有化して懐を富ませていきます。OPECの中でも特に活躍を見せたのが産油量が大きいサウジアラビアでした。サウジアラビアは自らが産油量のスィングプロデューサー(生産量の調節役)となることで需給を調整し、世界の石油価格をコントロールしていったのです。特に、1978年にイラン革命が起こり、一方の地域の盟主的存在であったイランが欧米から制裁を受け、他のスンナ派中東諸国から警戒されることで、サウジアラビアの存在感は増していったのです。
しかしながら、OPECの支配、そしてサウジアラビアの支配は長くは続きませんでした。中東諸国への依存に怯えた欧米諸国とセブンシスターズは新たな油田開発に挑んだからです。オイルショックで石油価格が高騰していたこともセブンシスターズにとって資源開発投資の強い追い風になりました。1977年にはアラスカのプルドーベイ油田が操業を開始、1980年代には北海油田の開発が本格化します。その結果、1985年から1986年の間に原油価格は大暴落、サウジアラビアはついに1986年原油の公示価格制を放棄し、OPECの価格統制力は一時的に弱まり、価格は低迷していきます。その後、ソ連崩壊、湾岸戦争などがありましたが、旧ソ連諸国の市場経済化の影響もあり、石油価格は比較的安定していました。しかし2000年に入ることから石油業界の構造は大きな転換点を迎えていきます。
2000年代 アメリカ・OPEC・BRICs
2000年代には、最も老舗の産油大国であるアメリカ、マーケットシェア40%を握るOPEC、そしてBRICsという新興国の台頭が産油マーケット全体に大きな嵐を呼び起こしていきます。まず、アメリカ。1970年代からのアラスカ油田で一度は産油量を回復させたアメリカも、1987年をピークに産油量を年々減少させていきます。資源大国アメリカも国内の油田が劣化していったのです。同様のことは北海油田についても言え、イギリス、ノルウェー政府も安穏とはしていられない状況になっていきます。
一方、OPEC。1997年のアジア通貨危機を機に急落した原油価格を持ち上げようと、1999年にOPEC加盟国が集い久々に全加盟国が減産に合意、価格引き上げに成功します。世界中のどの他の地域よりも経済を石油に依存している中東OPEC諸国は、世界の国々の中でも最も価格に敏感にならなければいけない必然があったのです。その後、OPECは、OPEC主要油田の原油価格を加重平均した「OPECバスケット価格」というインデックスを創設してこれを政策決定のベンチマーク指標としていきます。
そしてBRICs。今までは資源開発投資にも積極的になれなかった中国、ロシア、ブラジルが急速に石油採掘に力を入れ始めます。彼らはNOC(National Oil Company:国営石油会社)というスタイルを取り、政府主導での油田開発を実施していきます。その結果、中国では国有企業のペトロチャイナ(中国石油天然ガス集団)、シノペック(中国石油化工集団)やCNOOC(中国海洋石油総公司)、ロシアでは国有企業のガスプロム、ブラジルでは国有企業ペトロブラスが急速に世界の中でのプレゼンスを高めていきました。これらの企業はセブンシスターズでもOPECでもない第三極を構成してきています。ペトロチャイナ、ガスプロム、ペトロブラスに、サウジアラビアのサウジアラムコ、ベネズエラのPDVSA、マレーシアのペトロナス、国営イラン石油を加えた7社は、「新セブンシスターズ」と呼ばれるようになりました。
こうしてマーケット環境の急激な変化の中で、セブンシスターズは自らの経営基盤を強化する必要性を感じ統合を繰り返し、国際石油メジャーと呼ばれる企業は、現在はやや格下であった仏トタルを含めた5社にまで絞りこまれている状況です。国際石油メジャーは、旧来から保有していたアメリカを始めとする先進国国内の油田産油量が減少する中、周辺領域の海底油田やアフリカ、中南米の途上国での新たな資源開発に活路を見出そうとしているのです。
(出所)Forbes
今や日量バレルのトップ10にはOPEC諸国だけでなくガスムロムやペトロチャイナが入っています。
シェールオイルという新たな担い手
産油事情にとって最も新しい動きがシェールオイルです。通常の石油より奥深いシェール層に埋まっているシェールオイル、2014年頃から急速にアメリカで採掘が広がり、衰退していたアメリカの石油業界が息を吹き返したような状況になっています。シェールオイル採掘の担い手は、国際石油メジャーではなく多くが投機的とでも言えるようなリスクテイキングなスタートアップ企業です。彼らには投資家からのリスク資本がついており、それが開発を促しています。最近では国際石油メジャーも関心を寄せ始め、一部では開発プロジェクトへの出資が始まっています。
(出所)Crude Oil Peak
シェールオイルの採掘が始まり2013年頃からアメリカの産油量は上昇に転じました。もちろんこの産油量増加にはメキシコ湾等の海底油田からの産油も大きく後押ししています。今後の見通しではシェールオイルによる産油量の押し上げは今後数年は続くようです。
(出所)JOGMEC
また、上記はシェールガスに関する調査報告ですが、シェールガスとシェールオイルの分布は似ており、シェールオイルの埋蔵量も中国が最も多いと言われています。しかしながら、まだアメリカおよびカナダ以外の地域でのシェールオイル開発は活発化していません。特に中国のシェールオイルは地層の非常に深いところにあり、採掘コストがまだ投資対効果に見合わないと言われています。
価格調整メカニズムはどうなるのか?
国際石油メジャーが価格統制力を失い、第三極のNOCが台頭してきている中、価格調整は誰が果たしていくべきなのでしょうか。2015年の石油価格の下落に関してはOPECの不調和が話題に上がりました。2014年11月27日ウィーンで開催されたOPEC総会は世界中の注目を集める中、減産に踏み切らなかったことが石油価格の下落基調を特徴づけました。その後今日まで石油価格が20米ドル台にまで下がてきつつもOPECでの減産決定はなされていません。OPECが現状維持を貫く背景には、アメリカのシェールガスやシェールオイルが市場に出てくる中、マーケットシェアを死守するために価格破壊を容認してまでも販売量にこだわっているからだとも言われています。
(出所)BP
では本当に価格調整をOPECだけに委ねることができるのでしょうか。2014年の数値では何年かぶりにアメリカが世界最大の産油国に復活し、サウジアラビアやロシアを上回るまでに成長しました。さらにカナダ、中国はサウジアラビア以外のOPEC諸国を上回る産油実績を見せています。また、OPEC諸国は現段階で確認埋蔵量に対して抑制的に産油を行っているところ、アメリカやカナダは非常に積極的に産油を行っていることがわかります。さらに現在、アメリカ連邦政府は1975年に発動した国内産石油輸出禁止の解除を検討しているとの報道もなされています。この輸出解禁は、世界最大量を誇るアメリカ産原油がアメリカ国内に過剰流通することで国内石油価格を押し下げており、シェール関連投資への冷え込みを懸念してのことだと考えられるます。比較的産油が容易で産油コストの低いOPECの石油に対し、アメリカのシェールオイルは産油コストが高く、石油価格が低くては生き残れない事情があるためです。こうしてみてくると、世界経済全体の冷え込みを前にOPECの意見不一致に責任が帰されている感がありますが、実際にはシェールオイルを活発化させたアメリカ自身にその責任があるようにも見えてきます。
時を同じくして、サウジアラビアとイランの対立も激しくなっています。石油の文脈ではサウジアラビアが圧倒的な産油量と埋蔵量を誇っていますが、域内2位であるイランは2016年1月16日に欧米諸国からの経済制裁解除を果たし、これまで制限されていた石油の海外輸出が解禁するとも言われています。こうして欧米諸国とイランが接近する中、反対に欧米諸国とサウジアラビアの距離が拡大してきています。ロイター通信は1月27日、サウジアラビアを始めとするOPEC加盟国とロシアが石油減産について協議する可能性があると報じており、ロシアがサウジアラビアにアプローチしているようにも見えます。
一方的にアメリカが産油量を拡大させる中、我慢比べ戦法をとったOPECはどうなるのか。米ウォール・ストリート・ジャーナル紙は昨年9月、アメリカ国内のシェール企業が経営危機を迎えている様子を報道しており、アメリカのシェール企業も生き残りに必死のようです。そのような未来を予見してか、OPECが昨年12月に発表した「世界石油見通し」報告書では、「OPEC産原油の生産が2040年には現状より1,000万バレる多い日量4,070万バレルに達するだろう」と述べ、従来予測であった3,970万バレルより100万バレル上方修正し、一方でOPEC以外の国の生産量を下方修正しました。
政争の具として使われてきた石油。サウジアラビアとイランの対立を前にOPEC加盟国だけで結束を築くことは難しくなっていますが、第三国がOPEC加盟国に働きかけ、減産へと導く可能性は残されています。エネルギー業界にとって石油価格は巨大なインパクトを与えます。2016年は石油市場の動向から目が離せない状況が続きます。
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