自然資本をめぐる世界の流れ
近年、世界のサステナビリティ関係者らの間で注目を集めているのが「自然資本(Natural Capital)」という概念だ。「自然資本」とは、水や土壌、森林、生物など、我々の生活や事業活動に必要なあらゆる生態系サービス(フロー)を生み出しているストックのことを指す。
事業を継続・発展させるためには生態系サービスの利用が不可欠だが、自然資源は再生可能だが有限である。ストック(自然資本)である生態系が生み出す以上のフロー(自然資源)を利用すれば、当然ながらストックはどんどん減少してしまう。過度な灌漑による水不足や、乱獲による生物種の絶滅、森林破壊、自然が吸収できる以上のCO2を排出することによる気候変動などがその典型例だ。
そのため、事業のサステナビリティを高めるためには、事業がどれだけの自然資本を利用し、影響を与えているのかをインプット・アウトプットの両面から把握し、自然資本への影響が「赤字」にならないように持続可能な資源利用に取り組む必要がある。
「自然資本」という概念そのものは決して新しいものではない。1973年に経済学者のE.H.シューマッハ氏が著書「SMALL IS BEUTIFUL」の中で提唱し、1980年代から1990年代にかけても環境経済学の分野で盛んに議論されてきた概念だ。
その後、2012年2月にはUNEP FI(国連環境計画・金融イニシアチブ)などが国連持続な開発会議(リオ+20)において「自然資本宣言(Natural Capital Declaration)」を公表し、財務会計フレームワークに「自然資本」を組み入れるという自然資本会計(Natural Capital Accounting)の概念が金融業界でも広まった。自然資本宣言には2014年2月現在で世界44の金融機関が署名しており、日本からは三井住友信託銀行が唯一署名している。
また、IIRC(国際統合報告評議会)が提示している統合報告フレームワークの中にも6つの資本のうちの一つとして「自然資本」が含まれており、自然資本に関する情報開示の動きは加速している。
一方で、「自然資本」を財務報告や情報開示、経営意思決定に取り入れる動きが広まるにつれて需要が高まっているのが、自然資本に関する世界共通の測定基準やプロセスだ。その自然資本に関する基準作りを進めてきたのが、2012年に設立されたNatural Capital Coalition(自然資本連合、以下NCC。旧TEEB for Business Coalition)だ。NCCは、自然資本プロトコル(Natural Capital Protocol)と呼ばれる自然資本を評価するための国際標準となるフレームワーク策定を進めてきた。そして、ついに今年の11月、スコットランドのエジンバラで開催された今回で2回目となる自然資本に関する世界最大のグローバルカンファレンス、World Forum on Natural Capital 2015の中で、自然資本プロトコルのドラフト版が公表された。
今回は、そのWorld Forum on Natural Capital 2015に実際に参加したレスポンスアビリティ代表の足立氏に、同カンファレンスの様子や自然資本をめぐる世界の最新トレンド、自然資本プロトコルをどのように活用すればよいかについて、話を伺った。
レスポンスアビリティ足立氏インタビュー
Q:今年のWorld Forum on Natural Capital 2015では、ついに自然資本プロトコルが公表されました。今回のプロトコル公表には、どのような背景があったのでしょうか?
企業活動が自然に与える影響は日に日に増していますが、それらの影響はこれまで可視化されてこなかったため、外部不経済による自然の破壊が続いてきました。そこで2007年のTEEB(The Economics of Ecosystem and Biodiversity:生態系と生物多様性の経済学)から企業活動が自然生態系に与えている影響を包括的に測定しようという動きが本格的に始まったのですが、TEEBもあくまで既存の研究の寄せ集めでしかありませんでした。
また、企業が自身で自然資本に与えている影響を測定する必要性も出てきた結果、自然資本に関するコンサルティング会社なども増えたのですが、各社がそれぞれ独自の手法で測定しているため、共通する何かがないと正しい測定や相互比較ができないという状態になりました。それが、自然資本を評価するための国際標準となる自然資本プロトコルが策定されるにいたった背景となります。
今までは長らく(自然資本の)健康診断もしていなかったところが、少なくとも健康診断をやろうという話にはなった。しかし、診断の手法も診断内容もばらばらだったので、それを統一したかった、というところですね。
TEEB Study LeaderのPavan Sukhdev氏Q:なるほど、分かりやすい説明をありがとうございます。やはり企業を評価したい投資家からの要望があったのでしょうか?
そうですね、最初はプロトコルも「情報開示」を目的の主眼に置いていたのですが、実は徐々にそれがシフトしています。そして今ではむしろ、企業が自社内部の経営判断ツールとして活用するためのものという位置づけが強くなりつつあります。プロトコル策定にあたって実際に企業に聞いてみると、評価した内容をあまり外に出したくないという本音があったようです。ただ、評価の結果は開示しないとしても、測定することや、その手法を明示していくという流れにはなっています。
Q:なぜ足立さんはこの自然資本プロトコルに注目されているのでしょうか?
まず第一にこれが持続可能なビジネスや社会へ移行する上で非常に本質的で重要な取り組みであるということがあります。そしてさらに注目すべきだと思うのは、2014年の6月からプロトコルの策定が正式に始まったのですが、これを推進しているのは誰か、ということです。プロトコルの推進を主導しているのは、IUCN(International Union for Conservation of Nature and Natural Resources:国際自然保護連合)とWBCSD(World Business Council for Sustainable Development:持続可能な開発のための世界経済人会議)です。つまり、自然保護の分野のトップと、ビジネス界のトップの双方が協力して推進しているということです。
Q:なるほど。自然保護の分野だけではなく、ビジネスからの要望も強いわけですね。
そうですね。今回私が参加したWorld Forum on Natural Capital 2015でも、生物多様性条約の事務局長Braulio Ferreira De Souza Dias氏、IUCNの事務局長Inger Andersen氏、WBCSDのCEOを務めるPeter Bakker氏、GRIの事務局長Michael Meehan氏などの関係機関のトップをはじめ、UNEP、CDP、WWF、ブルームバーグなどこの分野に関わる機関の有力者が集結しました。
チャールズ皇太子も最初にビデオメッセージで登場しましたし、スコットランド自治政府の首相や環境相、EUのコミッショナーなども参加しました。それだけ世界中のサステナビリティ分野に関わる人々が「自然資本」を重視しているということであり、特に欧州では自然資本を推進する動きが強くなっていと言えます。
ビデオメッセージで登場したチャールズ皇太子Q:当日はどのような内容だったのでしょうか?
基本的には自然資本会計のことをより多くの人々に知ってもらうという啓発が中心で、実際の企業の活用事例を紹介する分科会が平行していくつもありました。そして、オフィシャルディナーの場で「自然資本プロトコル」のドラフト版が発表されました。来年の2月いっぱいまでがパブリックコメント期間となっており、来年6月には正式版が発表される予定です。
また、自然資本プロトコルには業界別のセクターガイドもあるのですが、今回は食料・飲料業界、アパレル業界の2つのセクターガイドが発表されました。これはセクターによって自然資本との接点も異なるため、それらを補完するものです。まずはこの2セクターからのスタートとなりますが、来年以降は対象セクターをもっと拡大していこうという計画になっています。
Natural Capital Protocolのドラフトへのフィードバックを促すWBCSDのCEO、Peter Bakker氏Q:今回発表された自然資本プロトコルとは、一体どのようなものなのでしょうか?
詳しくは公開されているドラフトを見て頂ければ分かると思いますが、その名の通り「プロトコル(手順書)」であって、これを見れば自然資本に与える影響を数値化するための計算がすぐにできるというものではありません。あくまで、どのようなプロセスで自然資本と自社との関わりを明らかにすればよいかという道筋を示したものとなります。
自然資本プロトコルには「Relevant(関係があること)」「Rigorous(厳密であること)」「Reliable(信頼できること)」「Consistent(一貫していること)」という4つの原則があり、Frame(枠組み、Why?)、Scope(範囲、What?)、Measure and Value(測定と評価、How?)、Apply(そしてどうするか、So What)という4つのステージで合計10のステップが示されています。
今回のプロトコル発表により、ようやく自然資本の測定に関する標準化ができました。これからはその基準を利用して測定を進めていこうという流れが世界的に生まれるでしょう。サステナビリティの分野で最も影響力があるこれらの団体が、自然資本をこれからの大きな流れにしていこうと考えていることが重要です。
Q:企業はどのように活用できそうでしょうか?
機関投資家はリスク評価に活用したいという思いが強いようですが、一方の企業側は、積極的に自社の評価結果を開示するという動きはまだ一部に限られます。ただし、開示ではなく内部のマネジメントツールとして活用しようという動きは活発化しており、正確な数を把握するのは難しいものの、少なくとも世界で100社以上が既に自然資本会計を導入しています。私たちも既にいくつかの日本企業のお手伝いをしており、引きあいも増えています。
最初に自然資本会計に基づきE P&L(Environmental Profit and Loss Account)を公表したのはスポーツウェアメーカーのプーマで、現在ではケリングやLVMHなども同様の取り組みを進めています。また、これとは少し異なる応用方法として、今回のカンファレンスではAECOMやダウ・ケミカルが、「ネットポジティブインパクト」に関する報告をしていました。
結果を開示する、しないにかかわらず、自社の事業のどの部分がどれだけ環境負荷をかけているかを把握することは自社のリスクや機会を把握する上でも非常に重要で、自然資本会計はこれから一つの大きな流れを作っていくことになると思います。
Q:プロトコルは最初に「Why?(なぜするのか?)」について、自社の事業と自然資本との関係性を見ていくところから始まるのが印象的ですね。
そうですね。日本では”How”に興味を持つ方が多いかもしれませんが、自然資本プロトコルでは、”Why”や”What”からしっかり考えていこうというのが特徴です。実際に「そもそも何のための自然資本プロトコルなのか?」という点は議論の中で変化してきており、先述の通り、最初は機関投資家向けの開示ツールとしての性格が強かったのが、徐々に内部診断ツールへと目的もシフトしてきています。
社外から求められたからやるということではなく、自社の経営意思決定ツールとして使えるというのがポイントですので、これを活用しないのはとてももったいないと思います。自然資本プロトコルを活用すれば、活用していない企業には見えていないリスクや機会が可視化され、より経営判断が明確になり、研ぎ澄まされます。どちらの方がより安定した経営をできるかは明らかでしょう。
また、結果そのものは公表しなくても、自然資本会計を活用しているということはアピールした方がよいと思います。それだけでも、機関投資家などに自社の先進性や堅実性を知ってもらうことができるからです。つまり、新しい経営のツールが増えたと捉えるのがよいでしょう。
Q:ありがとうございます。カンファレンスでは他に気になったポイントはありましたでしょうか?
今回は自然資本プロトコルのドラフト版に加えて、「The Peatland Code(ピートランド・コード)」も公表されました。こちらはドラフトではなく、最終版です。ピートランド(泥炭地)は非常に重要な生態系の一つで、色々な生物の住処になっているのですが、産業上の重要性もあります。例えば今回カンファレンスが開催されたスコットランドといえば「スコッチウィスキー」が有名ですが、スコッチウィスキーの製造には、良質なピートが欠かせません。
しかし、その泥炭地そのものが現在では急速に減ってきています。その意味でも、泥炭地を保護すると同時に、どのように回復させていくか、その持続可能な管理方法に関する規範がスコットランドで発表になったというのは意義深いと感じます。
Q:なるほど。今回のカンファレンスがスコットランドのエジンバラで開催されたという点にも意味があるのですね。
そうですね。英国人には、エジンバラは自然が豊かなところで観光地としても人気があるそうです。また、伝統的に羊を飼っていて牧草地があり、ゴルフ発祥の地でもある。スコッチウィスキーの製造と熟成にもピートだけでなくこの地域の気候が重要なのだそうですが、要するにエジンバラはもともと産業の大部分を自然資本に大きく依存しているのです。
そしてもう一つのポイントは、英国ではもともとロンドンではなくエジンバラが金融センターだったという点です。ロンドンが金融センターになったのは金融ビッグバン以降で、それまではRBS(ロイヤルバンク・オブ・スコットランド)に代表されるように、金融といえばエジンバラだったのです。あの著名な経済学者のアダム・スミスが活躍したのもエジンバラでした。
自然資本に大きく依存してきた場所で、かつ金融の中心地で近代経済学発祥の地でもあるエジンバラで、従来の資本主義に代わる新しい「経済学」が生まれ出そうとしているのが非常に印象的に感じます。かつてアダム・スミスは国富論の中で市場の調整機能を「神の見えざる手(an invisible hand)」と表現しました。残念ながら、これが完全に機能しているとは言い難い面もあることは現在の世界の状況が証明していますが、自然資本もこれまではinvisibleでした。自然資本会計とは、invisibleな外部不経済をvisibleにするものです。そのような経済学の大きな歴史の転換点として今回の会議を捉えると面白いですね。
Q:たしかに長い時間軸で捉えてみると、その意義の大きさが改めて分かりますね。少し話は変わりますが、「自然資本」についてはIIRCが提示するフレームワークの中にも6つの資本の1つとして含まれています。統合報告との関わりではいかがでしょうか?
もちろんIIRCとの自然資本プロトコルとの関わりはあります。自然資本プロトコル自体も、IIRCが提示する自然資本について、それを実際に測定する共通の手法がないというところが出発点となり生まれたものです。つまり、IIRCが自然資本を報告することの必要性を訴え、自然資本がそれに応えたということです。
Q:事業が自然資本に与える影響としては原料調達といった「インプット」と、CO2排出や廃棄物といった「アウトプット」の両側面があるのですが、自然資本プロトコルにおいてはどちらに重きがあるといったことはあるのでしょうか?
インプット・アウトプット共に大事です。両者とも、これまで既にマテリアルフローバランスで見てきたものでもあるのですが、今まで企業が管理していたのは自社の直接のインプット・アウトプットだけでした。これをバリューチェーン全体について見ようという点がポイントです。自社でどれだけ水を使った(インプット)のか、CO2を出した(アウトプット)のかということではなく、バリューチェーン全体でどれだけの水やCO2なのかというところまで範囲が広がるのです。
Q:先日閉幕したCOP21の中では、企業らが設定する気候変動目標について「Science-Based-Target(科学的根拠に基づく目標設定)」という考え方の重要性が議論に上がっていました。自然資本会計の分野においても同様の考え方はあるのでしょうか。
CO2排出ももちろん自然資本に関わる分野の一つですし、自然資本全体においてもScience-Based-Targetの考え方を取り入れようという動きは出て来ています。カンファレンスではCOP21に向けたオープンレターも出しましたし、SDGsとの関係性の話も話題になっていました。様々な動きが相互につながっています。
SDGsについて説明するUNEPのPushpam Kumar氏Q:自然資本会計がもたらすメリットとして、「リスク管理」ではなく「機会」の面に目を向けると、具体的にどのような点が挙げられるでしょうか。
リスクと機会は表裏一体ですので、リスクが分かるということは機会が分かるということでもあるわけですが、例えば自然資本会計のデータに基づき、自社の製品を環境に配慮された製品としてアピールしている企業も多いですし、そうした管理をしているから消費者からも選ばれるという事例は多く出てきています。
また、今まで値段がなかったものに値段をつけられるようになった意味は大きく、自然資本をコストとして換算することで、農業の生産性向上につながったりしています。リスクを管理して、チャンスを拡大できた例と言っていいでしょう。ですから、開示が義務化されるのを待つのではなく、今回の自然資本プロトコルの公表をいかにチャンスと捉え、競合よりもいち早くサプライチェーン上のリスクや機会を把握し、対処していくか。それが重要なのだと思います。
Q:ありがとうございました。最後に、自然資本会計に関連して、今回のCOP21におけるパリ合意に対する足立様の見方を教えて頂けますか?
プロトコルの発表を喜ぶMaria Alice Alexandre氏(Life Institute、ブラジル)、Martin Hollands氏(Birdlife International、イギリス)と足立直樹氏 今回の合意は期待以上のもので、とても高く評価できるものです。議長国のフランスも頑張りましたし、排出大国の米国と中国もよく合意したと思います。2℃未満というだけでもすごいのですが、1.5℃という文言まで入れたのは驚くべきことで、各国の危機感の表れと言っていいでしょう。また、今回のパリ合意は、決してこの2週間の交渉だけで実現したのではなく、コペンハーゲン以降6年間に渡る各国の地道な交渉や努力が結実した成果だということも重要です。そのことを私たち日本人はもっと意識するべきだと思います
世界中の人々が気候変動のことを真剣に考え、最後のチャンスを活かしてぎりぎりのところで今まさに閉じようとするドアの中には滑り込めました。今回合意ができなければ、世界の気候変動への対応は完全に手遅れになっていたはずです。これを機に世界中で脱化石燃料へのシフトという方向性が決定的となりました。
一方で、今回は合意のために目をつぶった部分もあります。例えば現在既に起こっている気候災害の問題については触れられていません。そして、実は1.5度はもちろん2度未満に抑えるためにも、21世紀後半にゼロではまったく間に合わないという科学者の指摘もあります。そのあたりをこれからどうするかを考えていくのが我々の役割です。
Q:ありがとうございました。
編集後記
今回のインタビューでの中で何度も繰り返し出てきたポイントは、自然資本プロトコルは開示のためではなく内部の経営意思決定ツールとして活用できるという点だ。これまで可視化されて来なかった自社のバリューチェーン全体と自然資本との関わりをインプット・アウトプットの両面からしっかりと把握することで、競合他社がまだ特定できていない事業リスクや機会をいち早く把握し、先手を打つことが可能となる。
また、欧州を中心に世界のサステナビリティをリードする主要機関らが自然資本会計を推進していく流れが既定路線化していることを考えると、今のタイミングでいちはやく自然資本会計に取り組むことで得られるメリットは非常に大きいと考えられる。既にセクターガイドも出ている食料・飲料企業、アパレル企業などはぜひこれを機に導入を検討してみてはいかがだろうか?
参考・関連サイト
加藤 佑
株式会社ニューラル サステナビリティ研究所 主任研究員